良王親王 ・ 津島入り
 
良王親王は、御父は兵部卿尹良親王、御母は世良田右馬助前大炊助政義の娘で、上野国寺尾城で誕生された。正長元年四月、寺尾城より下野国三河村落合城に入られた。永享五年信濃に赴かれた時には上杉の兵が追ってきたので戦った。木戸河内守の城に立て籠ったが、同年五月十二日木戸城を出て木曽の領内の金子の城にお移りになり、それより千久五郎の館に迎えられた。

同年十二月朔日、三河へ向かおうとして並合にお着きになった。この時も飯田・駒場の一族が襲いかかってきた。防戦して敵百三十四人を討ち取った。戦いは同月二日の午後五時から午後九時まで続いたが、その間良王を四家七名字の者や宇都宮左衛門・宇佐美などがお守りして合いの山までお逃がしした。政義・貞綱・貞広をはじめとして廿一〔十一〕人が討死にした。政義の辞世、『おもひきや幾瀬の淀をしのき来て此浪合にしつむへきとは』。

同月五日、良王は三河国成瀬にお着きになった。村人が一行を怪しんだために満昌の祖父の領地である坂井に行き正行寺を頼った。しばらくご滞在になって、同月廿九日、尾張津島の大橋貞省の奴野城にお入りになった。四家、七名字、宇佐美、開田、野々村、宇都宮の十五人は津島に居住した。

翌正月二日には兵粮米として日置村より米を献上してきた。これを十五人に分け与えた。四家七名字の家では正月二日に米を搗くというのもここに始まったのである。


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