良王親王 ・ 朱塗りの首
 
永享八年二月十一日に京都より平井加賀守源広利が三河に来て、新田・世良田・桃井の一族を捜索した。萬徳丸政親はこの時には蔵人と名乗って松平に居住していたが、捕えられて広利の家臣の梅原肥前守に預けられた。桃井満昌は正行寺で捕えられ、近江志賀の沢田八郎に預けられた。兒玉貞政は奥平で捕らえられ布施因幡守に預けられた。そしてこの三人を連行して京都に帰った。

五月三日には三条河原で斬られて梟首されることに決まったが(首朱塗りの事)、広利は政親・満昌・貞広を迎えて加茂静原の梅谷修理亮の家に匿った。そして遊行上人弘阿弥の弟子として徳阿弥・長阿弥・順阿弥と名乗らせ、朝廷に申し上げて回国免許の綸旨をいただいた。

 宣被奉祈国家安全宝祚長久者依天気執達如件
  永享八年十二月朔日      右 少 弁
         遊行上人 御房

細川右京大夫持〔頼〕元も添状を発付したので諸国をめぐり、同九年に三人とも三河へ帰ってきた。政親は安祥三郎左衛門と改名し、満昌は大河内式部少輔と名乗り、貞政は奥平監物と名乗って作手に住んだ。

永享十一年、洞院大納言実熈(後に大納言に任じられる)が三河へ配流され大河内に住んだ。嘉吉三年に実熈が京都に帰るとき、徳川太郎左衛門泰親は富裕であったので金銀を出して実熈の帰洛を援助した。泰親の娘は実熈の妾となり男子一人が生まれた。富永五郎実興と名乗り三河富永御所がこれで、三河山本の祖である。

同年将軍義教が殺され、その後は政親も満昌も住みやすくなって世に出ようとしていた。満昌の母は世良田右馬亮義時の娘であった。義時は武蔵矢口で自害した右馬助義固の子で、そのときは名を隠して藤沢の道場で出家したのであった。義時は政義の弟である。


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