巻第1−6 左兵衛督盛康室男子誕生の事
 
 河内守成綱の嫡男楠左兵衛督盛康は、父親のあとをついで、さらに楠を愛されていたのだが、父祖の資質を受け継いで文武両道、家来をいつくしみ民衆にあわれみをかけたので、世間の人はその徳を称えた。

 さて、河内国の水分明神は、呉子・孫子を祭っていた神社であったが、これは軍事戦略の祖神であって兵法家の崇め信仰するべき神であるとして、たえず参拝していた。

 あるとき盛康は従者二、三人を連れてお忍びで参詣し、心を落ち着けて祈念し、帰館したのだが、館の前の楠の馬場にゆっくりと差しかかったところ、日はすでに沈もうとしていたのだが、生い繁った楠が二本並んで立っているその木陰に、年のころは二十ばかり、見目形は美しくかわいらしく、たいへんつややかな女性が、唐綾の刺繍がある小袖を着ていたのだが、しょんぼりと座って涙ぐんでいた。盛康もこの女性を一目見て心が浮き立って、わが魂もこの人の袖に入ったのかと思うほど浮ついて、知らず知らずのうちに歩み寄って、

  「あんさんはどこの国のどういうお人でっしゃろか。こないな片田舎に住んではる人とも思われまへんねん

と訊ねると、この女性は少し顔を上げて、

  「そうなのでございます。わたしは知らないうちにここにさまよい来たのです。いったいここはなんという国なのでございましょう

と云う。盛康は

  「ここは河内の国の赤坂といいますねん

と答える。この女性はそれを聞いて、

  「ここは河内の国でございますか。都の近くの国と聞いております。ああうれしいこと。わたくし、もともとは都に住んでおりました。父は、お上とも交流のある殿上人だったのでございますが、去年の春、讃岐国寒川郡牟礼松の領主坂原藤馬助とおっしゃる方に嫁に迎えられて、一葉の船に乗り八重の潮路を運ばれて、そのお方と婚を契ったのは、どのようなご縁かと思っていましたが、この藤馬助という方は人に深く恨まれたお人で、国の敵であるとして、ある真夜中、見るも恐ろしげな武士が二、三百人が弓・やなぐい・鑓・長刀を持って牟礼松の館を取り巻いて、火をかけて討ち入ってきました。

 居合わせた家来たちは命の限り戦って、夫の藤馬助殿も自ら刀を取って斬りあわれましたが、大勢に取り囲まれてついにあえなく討たれてしまいました。日頃夫の側近くで召し使われていた若者は、かいがいしくもわたしを背負って煙の中を逃れ出て浜辺に到り、船がないかとそこここを尋ね歩いて、磯部に繋いであった商人船を、とにかくなだめすかして

  『この人を都の方へ送り届けてくれよ
と深く頼んで、その若者は
  『それがしは主君のお供をつかまつる
と云い捨ててもと来た方へ走っていきました。それより商人船に乗って最近尼崎とかいうところに着きまして、船の人々は、
  『あなたを都までお送りしたいところなのですが、みな急ぎの用事がございまして、お力になれません。ここから都はすぐ近くです。まっすぐお行きください
と云って、各々それぞれの方向へ行ってしまわれました。それよりは知らぬ道にさまよい、今ここに来たのでございます

とか細い声で語って涙を抑えることができずに泣いてしまったのだった。

  「そらまたえっらい人やがなぁ。わしが都へ送ったげまひょ。なに遠慮することありまんねん。ウチ入んなはれ

と云って、自分の館に連れ帰った。それからしばらく逗留しているうち、すぐに親しくなって、この女性は身ごもり、十月経って一人の男子を出産した。盛康は大いに喜んで、早く成長させて自分の後継ぎにしよう、そのうちここの領主と呼ばれるようになるやろうと云って、おおいに可愛がった。この若君は、成長して後、左兵衛督成氏と名乗ったのであった。


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