巻第1−7 河州水分明神霊験附法華普門品の事
 
 こうしてその歳も暮れていくと、この若君は二歳になった。正月の中旬のある日、長雨が降り続いて何となく陰気な夕暮れに、若君の母上がどこへともなくいなくなってしまった。盛康は大いに驚いて、

  (日頃から、故郷なので都へ帰りたいとか云うとったさかいに、都へでも行ってしまぃよったんやろか。そやなかったら狐の仕業かぃな

と思って、方々へ家来を走らせて行方を訊ね回らせたのだったが、その行方を知っている者はいなかった。その時、二歳の若君の寝ている傍に一軸の巻物が置いてあった。乳母が驚き、その巻物をあわてて盛康に差し出した。左兵衛督が開いて中を見てみると、極めて小さな文字で書かれたものであった。

  「何やねん、これ

とよくよく見てみると、『孫子が神武統宗』という題の軍略の秘伝書であった。盛康は驚いて、

  「こら珍しいもんやで。ワシはちっこい時分から軍学の勉強してきたけども、今までこんな書名のん、聞いたことあらいんで。……これでわかったわ。ワシは武略のことに興味持って、何年も、朝晩孫子の宮さんに行って拝んできたもんな。せやさかぃ、孫子水分明神さんは、わしの心ん中を憐れみはって、突然女に姿変えて、こいつ授けて、今、この秘伝の巻物をくれはったんや。ということは、この子どもは普通の子やあらいんど

と、信心を肝に銘じ、感涙を押さえながら、すぐに身を清めて水分明神に参詣し、さまざまな寄進を奉った。こうしてその歳も暮れて、翌年の春二月中旬のこと、些細な用事があって館の前の楠の下を家来たちに掘らせていたところ、三尺ばかり掘ったところに、金襴の守り袋が見つかったのだった。家来たちは大いに驚いて、あわてて主君に差し出した。盛康がこれを手に取って見ると、去年行方知れずになった妻が、いつも肌身はなさず持っていたお守りであった。

  「こらまたけったいやなぁ

と、袋を開けて中を見ると、その妻自筆の法華経普門品であった。左兵衛督はしばらく考えごとをしていたが、急に感激してむせび泣く。

  「ワシはつくづく思ぅた。亡きオヤジ成綱以来、世間の人とは違ぅて楠が大好きやった。それにいっつも水分明神さんを拝んできた。これは、一人前の武士になれるように、子孫が繁栄するようにと祈っとったさかいや。そしたら水分明神さんがそれを聞いてくれはったんやなぁ。その神力で、楠の精霊を遣わしはって、ワシに夫婦の語らいをさせてくれはったんや。それで一人の男子を授けて、秘伝の奥義をくれはった。こらみんな霊験あらたか、ってやっちゃろ。それに、楠は何も感じてへんように見えるけども、ワシが愛してるんを感じとって、その恩返しのつもりなんやろか。そしたら子孫の代で剛勇の名を天下に顕わすやろうことは、こら疑いあらひんで

と云って、その一巻の秘伝書と普門品とを大事にしまって、永くこれを家宝とした。するとその後数十年経って、元弘年間に、楠木河内守正成が赤坂の城より落ちて行く時、敵の射た矢が正成の肘に当たったのに何の怪我もなかったのは、守り袋に入れておいた普門品の一心称名の二句の偈に当たったからである、との噂の普門品がこれなのである。これはもっとも不思議な奇瑞である。この盛康より、楠木氏は代々水分明神を崇拝してきたのであった。この社の美事な額も、帯刀左衛門尉正行の筆蹟なのである。


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