□ 巻第1−8 多門丸誕生并宇佐美彌次郎相撲事 |
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その後、この男の子は成長して、武勇智略において有名になって、畿内でその徳を称賛された。左兵衛督成氏がその人である。しかし、その頃は鎌倉の北条家が権力を握って仁政を行っていたので、天下は泰平であり、万民は平穏に暮らしていたので、さほど名を上げるということもなかった。その嫡男は刑部大輔正俊、その子は従五位上左衛門尉正遠、後に名を改めて正澄といった。 正澄は第八十九代亀山天皇の御時代、弘長三年癸亥に生まれた。この時の将軍は宗尊親王、北条相模守平時宗が執権であった。正澄は先祖より受け継いだ所領である金剛山麓二千余貫の土地を領有して、近隣の郷に威を奮った。その正澄には男子が一人おり、俊親といった。しかし早世してしまっていたので、正澄は三十一歳になるまで、嗣子がないことを深く歎いていた。さて、大和国平群郡信貴山歓喜院朝護孫子寺(大和河内の国境)の毘沙門天は、霊験あらたかであったので、正澄の妻は、嗣子がないことを深く歎いて信貴に百日参詣し、 「才智に富んだ男の子を一人、お授けください」 と熱心に多聞天に祈っていた。その信心が通じたのか、ある夜の夢に、金色の甲冑を着た人が自分の口の中に飛び入ってきたのを見て、目が覚めた。跳ね起きて、じっと考えて、 (どうやらこれは霊夢なのでしょう。どういう出来事の暗示なのでしょう) と思っていたのだが、果たして、それより身重になって懐妊したので、願望が成就したと悦んだのであった。それから十四ヶ月経って、第九十一代伏見天皇の御時代、永仁二年甲午に誕生した。この時はすでに将軍は久明親王、執権は高時の父相模守貞時であった。 「これは正しく毘沙門天の生れ変りや」 として、多門丸と名づけたのであった。そのためか、幼少の頃より聡明で頭がよく、弁舌ははきはきとして利発なことはたとえようがない。六歳の時、家来たちの子供らと相撲をとって遊んでいたのだが、十二、三歳の、しかもたくましい者どもを軽々と打ち負かす。その後、四、五日経って、また相撲をとったのだが、十一、二歳から十五、六歳の子供をみな負かしてしまったので、おそれて誰も相手になろうという者がない。そこへ多門丸の乳母の夫である宇佐美次郎澄安の嫡子、彌次郎がやって来た。周りにいた子供らは、 「弥次郎殿が来はったでぇ。若様相手の相撲に勝てそうな人は、宇佐美殿くらいしかおらへん」 と云う。弥次郎は十八歳で、しかも頑健な身体つきであったが、 「それがし、若様と相撲とったら、持ち上げてほり投げまっせ」 と云う。多門丸はこれを聞いて 「なんぼ弥次郎やいうたかて、ほり投げれるかぃ」 と云って、がっぷりと組んだ。弥次郎はすぐに多門丸の腰の帯をつかんで、宙に持ち上げて 「落としまっせぇ」 と笑う。多門は、持ち上げられながらも 「落としてみぃ!」 と云うや、右手で宇佐美の眉間をぴしりと打つ。弥次郎はたちまち朦朧となってしまった。多門は宙より跳ね降りて、弥次郎を打ち倒したので、宇佐美も負けたのにもかかわらず、 (このお人は成長しはったら、どんなけ名誉なことをしはるんやろか) と歓喜の涙を流していた。この弥次郎は、後に宇佐美河内守と呼ばれて、正成(多門丸の後の名)の正の字を賜って、正安と名乗り、数度の忠義の戦に奮闘し、後に建武二年、正成と共に湊川にて自害したのであった。こうして多門丸は、七歳の時、普通の男の力量より少し勝る程度のようであったが、その年の冬、雪の降るある夕暮れに、一羽の雁が群れに遅れて飛んでいるのを見て、弓を取って矢をつがえ、狙い外さずその雁を射落としたので、父の左衛門尉正澄は、 「こらタダモンやない」 と感心した。その翌年八歳の春よりは、河内国錦部郡檜尾山観心寺という真言宗の寺へ行って学問を始めたのだが、一を聞いて十を知るという、その才智は世に並ぶものもないほどであったので、稽古も滞ることはなく水の流れるように進んでいったのである。 |
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