□ 巻第2−1 軍法伝来本朝来由并楠正成軍術伝習事 |
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そもそも兵法家の秘伝の奥義というのは、その昔、老子が天より伝えられた一法を根源として、太公望が天人地理にのっとって三門四種の法を作り、そこではじめて兵法道を開いたのであった。つまり軒轅黄帝より起こったものなのである。そうして、李老君、太公望、管仲、黄石、張子房に伝えられていったのだが、子房がこれを深く秘蔵して世間に伝えなかったために、その後、唐太宗皇帝が、天下中を尋ね求めて、李靖と議論してこの内容を決められたのだった。これより、兵法の奥義が末永く世に伝わったのである。 しかし、わが国では、第十四代仲哀天皇の御時代に、わずかに三略の書物が渡って来たというのだが、永く世に知られていなかった。その後、吉備大臣が入唐して、三略の一部を学んで帰国したのであるが、深く胸中に秘してわが子でさえも授けなかったのである。洛北鞍馬寺の多聞天の宝蔵に納めてしまった。 このため、第六十代醍醐天皇が、どうにかして兵法の奥義を求めて来て末永く日本の宝にしたいものだ、とさまざまにお考えになっていた。この時、安保親王の曾孫である左大弁宰相大江維時(江相公の孫の千古の子である)が文章博士であったので、維時にこれをお命じになったのであった。維時は勅命を受けて延長3年5月に唐に赴いたのであるが、同年の仲秋に到着し、まず砂金五万両を唐の皇帝に献上し、さらに、五万両を将軍龍取に与えて、兵法の奥義を授かりたい、と頼んだところ、皇帝がこれを許し、龍取に命じて、六韜三略、諸葛亮や趙雲の兵法、その他さまざまな兵法家の伝えるところなど、兵法の秘伝書三十余巻すべての伝授を受けて、帰国したのであった。これより大江氏の子孫が、代々兵法の奥義を伝え受けていったという。 ここに河内加賀田郷に修理亮大江時親という人がいた。中納言維時(はじめは左大弁宰相)の末裔で、太公望が興した覇者の兵法の奥義を極めた人である。そこで、楠木左衛門尉正澄の長男・多門丸は、十五歳になったのであるが、先祖の資質を受け継いで、聡明なことは万人に勝っていたので、どないかして兵法の奥義を知りたいもんや、と思慮していたのだが、幸いにも大江修理亮時親殿が河内にいたはる、この人にお願いして兵法を勉強したろ、と思案して、時親と師弟の契約をして、河内国加賀田郷に通って、太公望や孫子を始め、唐より伝来の兵法の奥義をすべて習得したのであった。 |
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