巻第2−2 正澄父子与矢尾合戦の事
 
 こうして楠木多門丸は十六歳になったので、延慶二年二月十三日に元服して、楠木兵衛尉正成と名乗った。そんな時、八尾別当顕幸が、長年の望みを達成しようと、同年六月下旬に軍勢を集めて攻めて来たのであった。楠木左衛門尉正澄・嫡男多門兵衛尉正成は、敵に橋頭堡を作らせまいと、軍勢を二手に分けて、左衛門尉正澄が一手を率いて敵陣に向かう。多門兵衛尉正成は、残る一手を従えて、敵の陣地の左方にある森の中にひそかに近寄って軍勢を伏せる。八尾別当は、そのような謀があるとは夢にも思わず、楠木勢が少人数であると見てとって、陣太鼓を打たせて討ちかかる。楠木勢は、あらかじめ打ち合わせていたことなので、馬が二の足を踏んで尻込みしているように見えていた。顕幸は、大いに勇んで、

  「かかれぇ!いったらんけぇ!

と下知したので、気がはやっていた若武者どもがしゃにむに斬りこんで、一戦のうちに優勢になって、逃すまいと追いかける。兵衛尉正成は、

  「ええ頃合やで!いてまえ!

と下知したので、伏兵は一斉に起き上がって、わめき叫んで討ちかかる。そのとき、正澄の軍勢が一気に引き返してきて、まず後ろより包囲して、粉々になれとばかりに攻め立てる。さしもの顕幸も、一戦のうちに負けてしまって、三方に散って逃げていくのを、楠木勢は先を争って追い討ちしたのであった。この時に、八尾の領地千五百余貫の土地を奪い取って、楠木家先代より領有していた河内石川郡二千余貫を併せて、およそ三千七百余貫の領主となって、これより以降は、八尾方に奪い取られるということもなくなった。これはひとえに、正成一人の謀略によるのである。

  「このお人はまだ十六歳やで。どんな人にならはんねやろな

と、聞く人は驚きおそれる。これより楠木家は次第に繁栄して、とくに子供が数多く生まれたのであった。嫡子は多門兵衛尉正成、その次は女子であった。この人は、一族の和田孫三郎正遠(後に和泉守と名乗る)の妻であって、和田新兵衛高家、同五郎正隆、同新発意源秀らの母である。その次は楠木五郎正氏、その次は七郎正季、その次は法師であり後に越前国平泉寺に住まいして律師恵秀と名乗った。その後、左衛門尉正澄は病気になって、ついに死去してしまったので、正成が父の名跡を継いで、威名はますます盛んになるのである。 → 楠木氏系図


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