巻第2−3 筒井氏家系并矢尾筒井柚頭出張の事
 
 ここで、大和国に住まいする筒井氏の祖先を探ってみると、天津兒屋禰命の末裔、藤原氏の一族であって、近衛家の分れである。第四十八代称徳天皇の御時代、神護景雲二年戊申の冬十一月に、大和添上郡三笠山に遷座された神々がおられた。第一神は、常陸国鹿島よりお遷りになった、武甕槌命である。第二神は、下総国香取よりお出でになった。その神様を経津主命と申し上げる。第三神は、河内国平岡よりお出でになった。天津兒屋禰命である。第四神は、伊勢国度会郡よりお遷りになる。その神様を姫大神と申し上げる。春日大明神と崇め奉るのはこの四座の神様である。このとき、天津兒屋禰命に付き従ってやって来た藤原氏は四家あった。そのうちの一人が添上郡筒井庄に住まいして、春日神社に給仕した。そこで筒井を取って氏としたのである。その名を筒井太夫藤原順武という。これが筒井氏の初代である。

 正成の当時は、その後胤で筒井浄慶という法師がいたのだが、代々春日明神の社僧で、領地は二千五百町、家は富み栄えていたために職業に似合わず、武をたしなみ、兵法を習得したので、従う一族郎党は武闘を好んだ。そして、楠木多門兵衛と面白からぬ出来事が起こって、双方の遺恨は日々募っていた。このことを伝え聞いて、八尾別当顕幸は、

  「よっしゃぁ

と喜び、正成に奪われた千五百余貫の土地を取り返そうと、筒井氏に使者を遣わして、浄慶に加勢を頼んだ。浄慶も、楠木を憎いと思っていたので、堅く盟約して千余騎を率いて、白地に墨で春日大明神の五字を大書した旗を翻し、河内八尾にやって来たのであった。顕幸は大いに喜んで、自分の手勢千余騎と合わせて二千余騎を従えて、「赤坂へ押し寄せたれ」と軍議した。楠木正成は、これを聞いて、

  「なんぼのもんじゃぃ

と、一族合わせて八百余騎で、赤坂の館を打って出て、堺の津より東方、誉田の北に一城を堅固に構えて陣取った。そうしたところ、河内国中の武士は、八尾の催促に応じて味方して、この城にやって来たので、顕幸は三千余騎の多勢になり、柚頭神道付近に陣取って、二里余りに及ぶ陣を固めた。しかし浄慶は、正成の武勇が尋常でないのをおそれて、城に近づこうとしなかった。正成は、

  「味方は八百で、あっちは三千や。比べモンにならんくらいよぅけおりやがるさかい、小細工もでけん。あいつらの陣立てをよう見て、隙あったらいてもたるんが、ええ武将っちゅうもんじゃ。へったら待つほかあらいん

と、城より出て戦おうとせず、互いに睨み合って十余日ほどが過ぎたのであった。


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