巻第2−4 柚頭合戦附正成奇策の事
 
 そのうちに、兵衛尉正成は

  「こうしとってもしゃぁない

と、八百余騎を率いて花田郷に陣を移し、敵陣近くまで進軍した。筒井浄慶はこれを見て、

  「ならば一戦してやろう

と軍勢を押し出す。筒井勢は道を挟んで、池を前に、岸の少し高くなったところを防塁にして、岸の下に布陣し、まず足軽兵を十人二十人一組で、足軽同士の戦をはじめた。大将正成は恩地左近太郎満一を呼び寄せて、

  「大和の奴らの布陣は、こちゃの思ぅとった通りやよってに、何も恐れることはあらいん。勝ったで。若い連中もみな、今に高名しよるこっちゃで

と云う。満一はこれを聞いて

  「そらまた何でだっしゃろ。聞かしとくんなはれ

と云うので、正成はにっこりと笑って、

  「そらあんた。池の岸がちょっと高うなったところでやな、岸の上には兵一人一騎も出さんでやで、岸より下のあちゃら側に陣を布いとんのはオレの武勇をこわがっとるんやと思うねや。それにやで、岸から一、二町あけて軍勢置かなあかんのに、池のすぐそばにおるいうことはやで、こらええ大将のするこっちゃないわな。
 なんでか云うたらな、オレらは真ん中の道を通ってあっちゃへかかっていくんやけど、池のすぐそばに布陣しとる軍勢は、オレらにかかろうとしてもあんまり近いもんやよってに、かえって退いてまうもんや。こんな細い道を突っこんで来よる奴らは、みな討死を決心したモンばっかしやし、そんなんと戦ったら味方はたいてい敗けてまう。それに先陣を進んで来よる奴は、そら臆病で逃げ帰りたいいう奴もおりよるけども、後に続きよる軍勢がわめき叫びもって勇み立って来よるさかいに、その勇気に引きずられてイヤイヤやけども陣中に斬って入って来よるもんやがな。そしたら絶対に味方は敗けや。
 そうなった時はやな、たとえば先陣が千騎ぐらいやったら第二陣は一町五反は退く。先陣二千騎もおったら二町は退いて陣を立て直しよる。オレらがやな、あの細い道を押し寄せてきて広い場所に打って出て二十間くらい来たところへ先陣が陣を乱さずに一斉にかかって戦うたら、あれらの勝利は疑いあらいん。こういうことはできん大将はまったく判らんと、ええ大将がよう判っとるもんなんや。そやけどな、あれらの第二陣、第三陣が思うたより遠くにおりよるんがちょっとよう判らんなぁ


と語る。これを聞いて、士卒は上も下もみな喜んで大いに勇み立つ。そこへ、智勇兼備の法師、八尾別当顕幸が選りすぐりの勇猛果敢な兵六百騎を率いて、ただ一旒の旗印を押し立て、まるで魚が大海を押し渡るかのように、正成の本陣の右手より静々と進んで討ちかかってくる。正成が「これは」と見やると、敵勢は雲霞のごとく続いていて、後陣も陣構えして向かってくる。正成は和田孫三郎正遠に向かって

  「あいつが、いつも四隊備えの陣を好むいうんはこれやな。向こうに敵がおる、とばかりに気ぃ取られて備えたら、こないな時には大騒ぎになってまうで

と云ってわははと笑う。そして池より一町ばかりこちらに引いて布陣していた味方へ急ぎ軍使を遣わして、

  「ちょっとも驚くことあらいんど。あいつらが池の道を越えて来よったらかかって戦え。遅れんなよ

と云わせる。しかし味方を見ると、横合いから攻めかかる敵に驚き、兵卒は尻ごみして混乱している。このありさまでは戦うといっても勝利がおぼつかないと思ったので、鐙を踏ん張って馬上に立ち上がり、大声を上げて、

  「正成が今日出て来たんはただ来ただけのこっちゃあらへんど!あいつらの中にオレらに寝返りするモンがぎょうさんおって、合図したら寝返りする約束があるさかいや。恩地おらへんか、満一どこや。池よりこっちで合図の火上げんかい!

と下知すると、これを聞いて士卒はどよめく。恩地左近太郎は、

  (さては合図があるんかいな

と思って、池よりこちら側の、少し高い塚に登って、狼煙を三つ上げる。これを見て、横手から攻めつけていた八尾別当の軍勢に、

  「あちゃらに狼煙が上がったんは、わしらの中に寝返りする奴がおるんとちゃうんか、この中に敵と通じとるモンがおるのんとちゃうやろか、後陣の味方に敵と一味同心のモンがおんのやろか、それに大和勢の肚ん中も判らんど

と、ひそひそとささやき合って進軍できなくなる。また、筒井の軍勢も、

  「これは何事や。味方の中に敵へ寝返った者がいると見えるぞ

と互いに疑心暗鬼となって、ささやき合って、これも進軍できなくなる。そのまま少し時が経つ。正成は士卒に向かって、

  「合図の狼煙を上げたんがちょっと早すぎたようや。和田正遠の一隊は、うそ逃げしたれ

と下知する。和田孫三郎は

  「判りましたで

と云って、配下にその意図を教えて、急に陣を乱して、慌てふためいて逃げていく。敵はこれを見て、

  「また例の古狸めがうそ逃げさらしよんねんで。化かされんなや、みんな。馬で見て来い

と下知すると、忍田次郎、絹川入道以下、五騎三騎ずつが連れ立って駈けて行ったが、正成勢を怖れて矢が届く距離までも近づかないで駈け戻ってきて、

  「あちゃらに見える林の陰に伏勢がおるように見えまんねんけど

と確認したわけでないことをさももっともらしく云ったので、もともと寄せ集めの軍勢、正成の一時しのぎの謀略に陥って、

  「それももっともやで

と云う者もあって、八尾に味方した若江藤次は自分の軍勢をまとめて後陣より退却する。八尾・筒井軍は愕然として、全軍うろたえているように見える。正成は下知して、

  「今日の合戦はこれまでや、退けぇ!

と静々と退却するが、追い討ちをかける敵兵は一人もいなかった。実は敵方には寝返りする者などはいなかった。八尾の軍勢が、思いのほか味方の後方に廻ってきたので、前後の敵に包囲されれば戦っても勝てそうになく、退却しようと思ったのだが、ただ退いたのではきっと敵兵が後を追って来るだろう、そうすると味方に死傷者がたくさん出るであろうと思案して、あのように狼煙を上げたのであったのだ。これはあらかじめ考えていた謀略ではなく、危急迫ったので一時しのぎの方便なのであった。それにしても、凡人やない、謀略に優れた名将やで、とみなのちに感じ入ったのであった。


← 巻2-3 | 目次 | 巻2-5 →