八幡進出 1
 
翌文安元年も秋になり、和泉・紀伊・大和三ヶ国の南朝に忠義の志しある者たちが十津川へ兵粮を送り、また続々と集まってきてその数すでに三千人にも及んだので、この時をおいていつの日に期すべきか、都近くに進出して勢いがつけば京都を攻め落として再び南朝を復興すべきである、として勝法親王を征夷大将軍として楠木次郎・和田兄弟・恩地・湯浅・赤松・福塚・一色・山名、都合千六百余騎が八幡山に登って義旗をひるがえして立て籠ったのである。

幕府では、敵に足がかりを与えてはならぬ、追い払ってしまえ、として、畠山の家臣の遊佐・誉田を大将とする六千余人がやって来て八幡を囲み攻撃した。しかし南軍は強く、幕府軍は多く討たれて腰が引けたところを和田・楠木が待ってましたとばかりに特に勇敢な兵どもを率いて攻め下ってきて、武勇をふるい兵法を尽くし競い討って畠山の兵士数百人を討ち取ったので、畠山軍は散り散りになって川より北へ引き退がる。

このため、さらに細川出羽守・佐々木判官・宇都宮入道祥綱以下二万余騎が向かって畠山を助けて戦った。しかし和田・楠木は物ともせずに、敵に攻めかかり八方へ追い散らかし十方へ駆け回る。その勢いに幕府軍は波逆巻く川を越えて引き退いてしまうのであった。


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