楠木正秀の死 1
 
翌文安四年十月、畠山持国入道が大将となって、細川・佐々木・土岐・宇都宮など三万余騎を率いて三度紀伊へ発向してきて方々で合戦をする。和田・楠木は小勢にもかかわらず勇気をふるって奮戦したが、三十余度も戦って、十二月三日の湯浅での合戦では、残った兵は五百余騎にもならなかった。敵は続々と雲霞のように連なって攻めかかってくる。

楠木は、黒糸威しの鎧に鍬形を打った兜をかぶり、三尺五寸の金作りの太刀を二振佩いて、逞しげな黒馬に貝鞍を置いて騎乗し、三人張りの弓を持ち二十四本の中黒の矢を指したのを頭上高く背負っていたが、兵に魚鱗の陣形をとらせて大勢のなかに割って入って四方八方に駆け回って今日を限りと戦った。その勢いに辟易して敵の大軍は引き退ってあちこちに手を出そうともせずに構えている。楠木はまた駆け入ってて裏側へ抜け引き返しては駆け破ってと午前6時から午後3時くらいまで十七度も駆け回っていたので、三百余騎の軍勢もわずか五騎にまで討ち減らされて自身も薄手の傷を六箇所被ったので、ついにこれまでとでも思ったのだろうか、宮が控えておられたところに引き返してきて、

 「もはやただ今を以て最期と思われます。死出の旅路のお供をいたしとう存じます」

などと申し上げれば、宮も、

 「微運のわれらがいつまでも生き延びたとてそれほどのことであはるまい。潔く討死にして先帝のご恩にあの世で報いようぞ。どうせ死する生命なればいま一度華々しく戦って討死にしようぞ」

と仰せになる。楠木らも涙を流して

 「もったいない仰せです。いざ、最後の一戦を仕ろうぞ」

と宮をはじめとして楠木次郎・和田三郎左衛門以下残った者23騎が、敵の渦巻いている真っ只中へわめきながら駆け入って、七転八倒しながら攻め戦う。

しかし宮は四箇所ほど手傷を負った上に真向を射られて馬より落ちられたところを畠山四郎に御首をとられてしまった。これを見て和田以下二十余人は敵に次々と組み打ちして討死にしてしまった。


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