源中納言の北の方発心の事 二
 
ここに3年ほどが過ぎて、世上の騒動も徐々に静まってきましたので、御台はやはりふるさとの方が思い出されたのか、吉野山をお発ちになることになって、

 何処にか 心を止めん 三芳野の 芳野の山を いでて行く身か

親房卿の亭にしばらくおられ、夜明け前にお発ちになったのですが、名残の尽きることはなくて、振り返られると、夜明けの空に残る月が山の端近くにはっきりと見えています。

 別るれど あひも思はぬ みよし野の 峯にさやけき 有明の月

阿倍野のあたりを通られた時に、「ここが顕家卿の討死なされたところです」と告げられたので、草の上に倒れ伏すして、

 なき人の かたみの野辺の 草枕 憂もむかしの 袖のしらつゆ

その近くに刑部丞友成が世を捨てて住んでいましたので、御台は訪ねていかれました。すぐに友成がやって来まして、御台のご様子を見て、「あれほどお美しい方であったのに、いつの間にこのようにおやつれになってしまわれたのですか」と涙をこらえきれずに泣いてしまいました。

そして住吉・天王寺の近くまでお送りして、ほうぼうをご案内すると、天王寺の亀井の水のそばの松の幹を削って、

 後の世の 契の為に 残しけり むすぶかめの井 水くきのあと

と書き付けられたのでした。それより私は帰ったのです、と友成が一年後に訪ねてきて語りましたので、たいそう御台が気の毒に思いました。その後、天王寺へ参詣した折に、その御筆の跡が消えずに残っているのを見まして、無性に悲しくて泣けてきたのでした。

その後、御台は京都に上られて、やはり世を捨てておられた母君とお暮らしであったのですが、先に母君がお亡くなりになり、その翌年の春、御台もお亡くなりになってしまったと聞こえてきました。この方は、日野資朝卿の御息女でありました。


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